Monday, April 4, 2011

引きこもりというコンセプトに巡って

何で人は人生を避けてるのだろう?
今度の新しい読み物は「ひきこもり」は哲学であるという論文で引きこもりをする人達は仕事など授業に行く代わりに自分の部屋にでも閉じこもる事にしてる人だそうである。しかし筆者の述べたように、こもるという言葉をよく見れば二つの違う含蓄がある意味が出てくる言葉が見られる。そのひとつは以前私が言った世界を避けていて、隠れている事ながら、こもりにはそういうひとつだけの意味ではない。そのほかには参篭したり神社に一人で祈ったりするような事の含蓄もあるからである。そしてこの二つ目の意味は悪い含蓄があるのは言えない。自分の望みなら一人で生きていることはたくさんの考える時間が与えるだろうか。人生の意味とか死の意味とか社会に出る意味とか外の刺激というような気をそらす事がなかったら珍しく創造的な思想が生まれるだろうか。

どうやらちょっとでも分かる気がする。そういう引きを。その引きと言えばそれは時々自分のことに自身でも何らかの形で建前を使いたくないけど知らない人の前に使い余儀なくの建前を使ってる自分を向き合いたくないからでもただたまり続ける筈なストレスを無視するなどの引き…私も時々この気持ちがある。特に最近。これからどんな仕事ができるかなぁってこれからの人生の道はどうなるのかなぁって…その答えを見つけるように以前より一人でたくさんの考えることがしてる、この間。しかし気づいたのは私のためにこういう仕方は正しくはないと思う。やっぱり自分らしくいられるのは一人で時間を過ごす事や友達と時間を過ごす事や自分の想像的なエネルギーを使う時や新しいことを習う時も…この事をバランスしないと自分を見失う事になる可能性があると思う。

もちろんこのどうやって一番自分らしくいられる方法は人によって違うとを分かるけど、引きこもりはこのバランスをなくした人のでしょうか。